置き去りにすることはしつけになるのか・事件のその後

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置き去りにすることはしつけになるのか

置き去りにすることはしつけになるのか

しつけとは?

しつけとは、自分が属している社会や集団で生きていく為に、その社会や集団のルールを教えることであり、礼儀作法や常識を教えて行動できるようにすることです。日本であれば日本の礼儀作法や常識を親が子どもの頃からしつけとして教えていきます。外国では外国の礼儀作法や常識があるでしょう。また、学校やコミュニティにおいての規律や常識を大人がしつけとして教えてもいきます。 しつけはとても重要です。子どもの時に、親や身内、先生や周囲の大人達にしつけを受けていない子どもは、大人になって社会の一員として生活していく上で非常識な礼儀知らずでルールも守れない大人になってしまう可能性があるからです。そのため、大人は子どもが小さい頃からわかることを少しずつ教えて、きちんと行動できるように教えていくのです。訓練といってもいいでしょう。

しつけと虐待の境界線

しつけと虐待の境界線

1990年代の初め頃、児童虐待という言葉は一般にまだ浸透していませんでした。児童虐待がクローズアップされ始めたのは、1995年を過ぎた頃からです。それまでは、大人が子どもに対して行うしつけは、どんなに残虐であったり問題があったりしても、あくまでしつけとして考えられ良くも悪くも受け入れられてきました。 今では虐待と間違いなく言われる行為も、普通にしつけとして家庭や集団内で行われていました。誰にも咎められることがなかったのです。もし大人の行為がひどいものでも、しつけという言葉を出されたら第三者は途端に口出しをできなくなってしまいました。そのしつけと称する好意を受けている子どもの将来の責任を誰も取れませんし、親でもなければ口出しが難しい問題だったからです。

しかし時代は変わり、子どもの人権を多くの大人がきちんと考える時代になり、しつけを超えた虐待と思われるような行為は批判される対象となり、児童相談所が介入したり、警察が捜査介入をする時代になってきたのです。しつけと虐待の境界線が、以前よりかなり明確に引かれるようになりました。 以前は普通に行われていた、言うことを聞かない子どもを「電柱に縛る」「夜中に外に追い出して立たせる」「駄々をこねた場所に置き去りにする」などの行為は、虐待の一種として非難され、次第に行わない人が増えてきました。

親の心理

今の親はギリギリのラインで子育てをしています。しつけをしなければ「しつけもできない親」と馬鹿にされ、あまり厳しく頑張ってしつけをしていれば「虐待ではないか」と疑われます。昔のように世間や周囲が寛容な社会ではなくなっているからです。加えて昔と比べて核家族が多く、子育てを孤独な状態でしている親が多くなっています。 少し子どもが大泣きをすれば虐待を疑われるので、できる限り大泣きをさせないように育てている親も多いでしょう。怒らない育児と言われますが、そうせざるを得ない環境が実際にあります。 また、聞き分けのない子どもを育てている場合、しつけを頑張っても頑張ってもうまくいかないことばかりで、厳しく対応することも多くなってしまいます。身内が一緒に子育てをしてくれていれば、なだめすかしたり、間に立ってうまく流れを変えてくれたりもあるでしょうが、それも期待できません。そのため、優しくし過ぎるか厳しくし過ぎるか両極端なしつけの仕方になる親がいるのも理解できます。

置き去りはしつけなのか?

置き去りはしつけなのか?

では、子どもをどこかに置き去りにすることは、虐待なのでしょうか。今の親世代が子どもの頃、言うことを聞かなかった時に押し入れや物置に入れられた人が意外とたくさんいることでしょう。テレビアニメでも、押し入れに入れられるというネタが今でもあります。怒られて閉じ込められて、泣いて謝って、もう二度としないと心に誓ったことがあるではないですか。 では、真冬や夜になってから外に放り出されて、家に居れてもらえなかった人もいませんか。外は寒くて怖くて、ただ辛かった記憶がありませんか。 この2つは似て非なるものです。押し入れや物置など、親の目に届く範囲でのしつけとしての罰はありでしょう。しかし後者の場合は、親の目の届かない場所に子どもを放置することに問題があります。子どもがいなくならないと誰も断言できません。

置き去りは、状況だけみると後者に近いものです。一瞬でも、親は子どもから目を離し親の目が届かなくなる、親のテリトリー外で行う、などの危険を伴うしつけになるからです。子どものしつけの責任者は、当然産んだ親です。責任者である以上、完全に安全な環境でのしつけを行うべきで、環境が不確かな場面や場所で行うことは、非常に不適切です。 置き去りは、場所がどこであれ、時間の長短は関係なく、危険をはらみます。ちょっと目を離した隙に、子どもがけがをするかもしれない、知らない人に車に連れて行かれるかもしれない、子ども自身が動き回ってよくわからない場所にまぎれこんでしまう、などの危なさがついて回ることです。なので、とても置き去りをしつけと純粋に呼ぶには難しい部分もあるでしょう。

しつけのために置き去りにした事件のその後

しつけのために置き去りにした事件のその後

北海道男児置き去り事件

事件の概要

2016年5月28日、北海道亀田郡七飯町という町で小学校2年生の男の子が行方不明になりました。七飯町山中で家族で山菜採りをしていたところ男の子が居なくなったと、両親は警察に届け出をしたのです。警察は数日後から男の子の捜索を始めました。 しかし、翌29日に父親の説明が全く事実とは異なることがわかりました。山菜採り中に男の子が居なくなったのではなく、男の子が親の言うことを全く聞かなかったため、しつけとして両親が山中の林道に置き去りにしたことがわかったのです。 父親が嘘の説明を警察にした理由は、自分達が置き去りにしたことを警察に知られるのが怖かったことと、置き去りにしたことが他人に知られると世間体が悪いということでした。

世間の反応

北海道男児置き去り事件

28日の行方不明の以降、世間は純粋に子どもの安否を心配しました。山で遭難したのではないか、誘拐されて誰かに連れて行かれたのではないか、とテレビでもネットでも新聞でも、行方不明事件として注目をされ、多くの人たちが心配しました。 しかし、29日に両親が置き去りにしたことが判明すると、両親に非難の声が殺到しました。テレビもネットも新聞も、すべての媒体が、車から出して山道に置き去りにしたこと糾弾しました。両親が世間体を気にして置き去りの事実を話さなかったことも災いして、虐待ではないかとの論調も強くなりました。 しかし、両親の言い分では「車や人に石を何度も投げつけて、注意してもやめなかった」そうで、周囲の話でも非常に活発な男の子でなかなか言うことを聞かない、ということがわかってきましいた。

両親は怒っても言うことをきかない為、しつけとして車から降ろし数十秒置き去りにしたまま車を走らせ、反省したところで車に乗せるつもりだったのですが、その数十秒の間に男の子はどこかに行ってしまったのです。 家の近隣であれば、このような大騒ぎにならなかったでしょう。しかし、両親が置き去りにした山は、熊も出没する危険な山で、車通りもそんなにない山でした。そんな山に置き去りにして子どもが居なくなれば、最悪命の危険も考えられる場所だったのです。 そういった状況だったため、報道では両親に批判的な意見しか出てきませんでしたし、中には虐待の罪状、保護責任者遺棄罪に該当するのではないかという人すらいました。

擁護する声

父親を擁護する意見が、ネットを中心にあったのも確かです。主に子どもを育てている子育て世代の人や、かつて親のいうことを中々聞けなかったという人などです。虐待ではなく、しつけの一環として置き去りにすることはありではないか、という意見もありました。 よくある話では、お菓子売り場やおもちゃ売り場で、欲しいものが買ってもらえないからと床に寝ころんで駄々をこねたり大泣きする子どもに対して、親が「もう、置いていくよ」という光景です。スーパーやデパートでよく出くわしますが、つい親に同情してしまう光景です。こういった例を引き合いに出し、両親擁護の声も確かにありました。

男の子を発見

男の子が行方不明になってから6日後の6月3日、男の子は七飯町に隣接する鹿部町にある陸上自衛隊駒ヶ岳演習場の宿舎内で発見され、無事保護されました。この男の子は、置き去りにされた後一人で山の中を歩き、置き去り当日に5キロも先にあるこの駐屯地にたどりついていたのです。 たどりついてからは、宿舎内でマットレスの間に挟まって眠ったり、水道の水を飲んで何とか生き延びて、発見当時は衰弱や低体温などの症状が見られたものの、驚くべきことに外傷もなく、命には別状のない状態でした。

発見後の議論

男の子の発見後、無事に発見されたことを喜び、置き去りにしたことを泣きながら謝った父親に、少年は「お父さんが優しいから許してあげる」と言いました。父親は置き去りにしたことを非常に後悔したはずです。そして、少し置き去りにしてお灸をすえるつもりでしたことが、最悪の結果のならなかったことに安堵したことでしょう。 発見後は、6日間も自分の身を守りながら耐え忍んだ男の子の我の強さは、話題になっていました。あの年齢の少年が生き延びる能力を持っていたことに驚きとともに、しつけをするのが難しい子どもなのだろうな、という意見もみられました。確かに、6歳にして、ある意味自分を確立し、自立しているように思える少年のしつけは、大変な苦労を伴うことは多くの人が理解できるでしょう。 北海道男児置き去り事件は、こうして多くの議論を巻き起こしながら、収束していきました。

置き去りは表裏一体

置き去りは表裏一体

子どもの精神や肉体双方にトラウマを与えたり、傷を与えたりすることが虐待です。そういったしつけは、どんなに正当化してもしつけではありえません。子どもの人権ばかり尊重していては、しつけをきちんと受けていない子どもになることもありますが、とはいえ虐待と思える程のしつけを与えることは大人として間違えています。 今回のテーマ、置き去りについても、しつけと虐待の表裏一体です。子どもの心身に危険が起こらないように考えながら、置き去りのフリをしようとするのであれば、しつけとしても有効でしょう。 しかし子どもが危険な状態にさらされる可能性があるのに置き去りにしようとすれば、それは虐待と言われても仕方ありません。大人による子どものしつけは、将来的に子どもを守るためにすることであるからです。子どもを守れない置き去りは、しつけにはならないでしょう。 子育ては非常に大変で苦痛を伴います。加えてしつけは、大きくなればなるほど、反抗されたり無視されたり、言葉で言い表せない程の苦労を伴います。しかし、子どもを立派にするのが大人の使命です。悩むことも多いでしょうが、時には笑い時には怒りながら、しつけと向き合っていきましょう。

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