悪女の特徴・悪女診断・悪女になる方法・悪女の名言

自分磨き

悪女の特徴

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「悪女」というと、どんな女性を思い浮かべますか。「悪」とつくからには、悪い人には違いありません。しかし、一般的には美人で悪いヤツとはわかっていても抗いがたい魅力がある人のようなプラスのイメージもあるのではないでしょうか。アニメのルパン三世に出てくる峰不二子のような、わがままで勝手でセクシーで魅力的な女性です。

とはいえ、男性目線での悪女の特徴をリサーチしてみると、お金目当てに人と付き合う、二股三股はあたりまえといった意見が多いです。また、浮気や不倫を平気でする、裏表がある、平気で嘘をつく、などもあがってきます。 一方女性目線になると、人の気持ちを考えない、人の彼氏を平気で取るといった意見が多く、目的のためなら手段を選ばない、悪いことをしても平気、という意見が多くなります。 男性も女性も悪女のイメージが恋愛問題に偏っているうえに、自分が直接被害を受けた経験から言っているのではないかと問いかけたくなるような印象です。とはいえ、大筋での悪女の印象は、男女ともに似たようなものと言えるでしょう。 しかし、悪女というものは実際にそんなに身近にうようよといるものでもありません。それに、悪女は別に恋愛の場面に限って悪い女というわけでもありません。実際には、もっと恐ろしい女であることが多く、悪気はまったくなくて自分では普通のつもりの女性だったり、完全な犯罪の域に達していたりと、いろいろ複雑な女です。 そんな悪女を「魅力的だ。」とか、「あんな女にだったら騙されてもいい。」という男性もいるのですから、女性としては参考になる部分もたくさんあります。今回は、そんな「悪女」について、いろいろと細かく掘り下げて紹介します。

本来の悪女の意味

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悪女という言葉を辞書で引いてみますと、一番最初に「容貌の悪い女、醜女」と出てきます。二番目には「悪い女、毒婦」となり、三番目にやっと「男を魅了し、堕落させるような女性」という、一般的なイメージの悪女像が出てきます。

「え、なんで?悪女って、美人じゃないの?」と言いたくなるところであります。ですが、本来の意味は「醜い女・悪い女」ということです。ちなみに、辞書によっては一番と二番が入れ替わっているものもありましたが、三番はないものすらありました。美人で魅力的な悪女というのは、人々の経験や実例から、後世に付け加えられたものなのでしょう。 実際に例をあげると、2007年から2009年にかけて起こった、付き合った男性を次々に練炭自殺に見せかけて殺して財産を奪った悪女がいます。同じ手口で6人(起訴対象にできたのは3人)もの男性を毒牙にかけた犯人の容姿が、美人どころか並み以下であったことに驚いた方もいらっしゃるのではないしょうか。実は、容貌のよろしくない女性が稀代の悪女という事実もあります。

有名な悪女たち

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悪女=美女というイメージが定着しているのは、多分に、悪女と呼ばれる女性たちが美人であったり、容貌の定かでない歴史上の人物であっても美女と言い伝えられているからでしょう。

世界三大悪女、日本三大悪女、中国三大悪女などと言われる女性たちは、ほとんどが美女であったり、時の権力者の寵愛を受けていたりします。 ここでは、一般的に悪女と呼ばれているその有名な女性たちをあげて、特徴や共通点などを紹介します。

世界三大悪女

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「世界三大悪女」という言葉はあるのですが、実はこれは意見が割れていて、世界三大美女のようにきっちりと三人の名が挙がるものではありません。世界は広すぎて、その中に悪女は多すぎるということなのでしょう。もっと範囲の狭いで、日本三大悪女や中国三大悪女の方が、ある程度ちゃんと限定されています。

それでも、メアリー一世、江青、エレナ・チャウシェスクという比較的新しめの三大悪女があげられています。古くは西大后、マリー・アントワネット、クサンチッぺという三大悪女がいたりいました。他にも、カトリーヌ・ド・メディチ、ルクレチア・ボルジア、アグリッピナ、などたくさんの女性が存在しています。

メアリー一世

ブラッディ・メアリー、血まみれメアリと呼ばれたイングランド女王がいます。メアリの肖像画をみると、きつい顔をしたおばさんのように見えます。ですが、若かりし頃は非常に魅力的な美少女で他国でも有名でした。縁談も豊富でしたが、結婚したのは38歳の時で、11歳年下のスペイン王太子アストゥリアス公フェリペでした。

強国スペインとの婚姻で、将来イングランドがスペインに統合されるのではないかという不安から、複数の反乱が起きる事態にもなりましたが、これを鎮圧して結婚しています。大騒ぎした割に、翌々年にはフェリペはスペイン国王になって帰国、一年半後にロンドンに帰ってきたものの、その三カ月後にスペインに帰りそのまま一生会うことはありませんでした。 メアリーは1514年に国王ヘンリー8世とその最初の王妃キャサリン・オブ・アラゴンの間に生まれました。ヘンリー8世は、娠の望めなくなったメアリーの母親を、結婚を無効として理不尽に追い出したり、その後も、気に入らなくなった妻に濡れ衣を着せて処刑したり、離婚するためにカトリックからプロテスタントに改宗してみたりと、かなりやりたい放題の王さまでした。 おかげでメアリーは、幼少期は父のお気に入りで後継者扱いだったものを、母が追い出されると庶子扱いに落とされて王位継承権を奪われました。その上、父の2番目の妻アン・ブーリンに嫌われ、侍女扱いにされたあげくに幽閉されたり暗殺されそうになったりして、散々でした。 幸い、父の3番目の妻が力を貸してくれ、奪われた財産なども戻ってきましたが、相変わらず庶子扱いだったため王女に戻せという反乱が起きています。 この反乱を起こした首謀者はメアリーの侍従のジョン・ハッセー男爵でしたが、失敗に終わると、メアリーはうまくのがれることができました。不関与であったこととなり罪に問われてはいません。ちなみに、男爵は処刑されました。その後も紆余曲折あったものの、6番目の父の后のキャサリン・パーの助力もあって王位継承権も戻ります。 父の死後、王となった弟のエドワードも夭折しました。エドワードは、王位継承権1位のメアリーと2位のエリザベス(アン・ブーリンの娘でのちのエリザベス一世)を差し置いて、父親の妹の血縁のジェーン・グレイを次の王に指名していました。メアリーは彼女と対立したものの、うまく民衆を味方につけて、一旦ジェーンに渡った王位を奪って即位しました。 敬虔なカトリック信者であり、即位後はプロテスタントへの激しい迫害でブラッディ・メアリーと呼ばれるようになります。女子供も含め、300人以上が殺されています。メアリーが42年の生涯をとじた11月17日は、「圧制から解放された日」として、なんとその後200年間にわたって祝われました。

江青(チアン・チン)

江青は、お隣の中華人民共和国を建国した毛沢東の4番目の妻で、文化大革命を主導した政治家のうちの一人です。「紅色女王」と呼ばれて絶大な権力を持っていましたが、毛沢東の死後、すぐに失脚して投獄されました。

文化大革命とは、非常にコンパクトにまとめてみますと、「毛沢東が、封建社会を打ち壊し、資本主義を徹底的に排斥し、貧民のユートピアのような社会主義国家を作ろうとした革命」と表現することが出来ます。 1966年に始まり、1977年終結宣言が出された社会的騒乱です。正式名称は、プロレタリア文化大革命といい、「文革」と略されています。多くの迫害・虐殺があり、庶民から教育の機会を奪うなどしたため後遺症が大きく、中国では負の歴史としてなかったもの扱いをされています。 江青は、山東省で生まれ、もともとの名は李淑豪、または李進孩とも言われています。17歳の時に最初の結婚をしますが、二カ月で離婚、次に学生運動の指導者であった共産主義の青年と同棲し、共産党に入党します。 その後、江青は上海に移って女優になります。1934年に俳優で映画監督であった唐納と結婚しますが、わずか二カ月で別の男性に走り、そのため唐納は二度の自殺未遂を起こして大スキャンダルとなり、江青は上海で女優を続けることができなくなりました。 離婚が成立したあとは、かつて同棲していた共産党員の男とともに延安にわたります。江青を名乗りだしたのは、この頃からです。そこで演劇を教えていましたが、女性の少ない延安で元人気女優の江青の美貌は目立っており、ここで毛沢東と出会います。 出会った当初は20歳年上の毛沢東には妻がおり、不倫の関係でした。しかも、相手はスキャンダルで知られる江青ということで、反対されました。しかし二人は1939年に結婚し、翌年には娘が生まれています。 毛沢東が国家主席となったために、江青はファーストレディになりますが、毛沢東は政策の失敗で数千人の餓死者を出して失脚してしまいます。この時、江青が夫を支え、夫にとってかわった劉少奇の打倒を勧めるようになったのが、のちの文革につながったとも言われています。

1966年の文化大革では張春橋らと「四人組」を作って活躍し、政治に進出し、多くの人物を冤罪で失脚させて主導権を得ます。嫉妬心が強く、以前自分を評価しなかった演劇界を弾圧したり、自分を差し置いて主役をはっていたスターの王螢を投獄して死に至らしめたりしました。 他にも、自分より優れたところのある女性に難癖をつけて逮捕・投獄するなど、ほぼ私怨でやりたい放題でしたが、毛沢東は女性をたくさん持っていたため、江青をなだめるために強いことは言えませんでした。

しかし、毛沢東に死後は力を失い、1976年には江青を含む四人組は逮捕されて死刑判決を受けます。裁判での態度は終始挑発的であり、何度も退廷処分を受けています。その後、無期懲役に減刑されましたが、1991年、癌の治療のための仮釈放中に、「毛主席、あなたの生徒、あなたの戦友がいま、会いにゆきます」という遺書を残して自殺しました。77歳でした。

エレナ・チャウシェスク

1916年に生まれたエレナ・チャウシェスクは、前述の江青とほぼ同年代の女性です。夫はルーマニアのニコラエ・チャウシェスク元大統領で、エレナは夫の独裁政治を支え、自身も強大な権力を持っていました。

1971年、中華人民共和国へ外遊した際に、前述の毛沢東夫人の江青の政治的な力を見て、エレナは自分も同じようになりたいと思いました。1973年には政界に進出して、1980年に第一副首相まで登りつめています。 結婚後に工業化学を学び、1960年に博士号をとっています。科学者の権威を高めるため、自分名義の論文を100以上も他人に書かせて、名誉博士号を収集したとも言われています。 1950年代は家庭と子育てに専念しており、子供好きでも知られています。学校教育や孤児院の増設に力を入れていたのはいいのですが、そのうちに暴走しました。避妊と堕胎を禁止した上、法律で女性は子供を5人以上産むこと、としたためのちに「チャウシェスクの落とし子」と呼ばれる、大量のストリートチルドレンを生む結果となりました。 1989年に不況や言論の統制への不満などから民衆の不満が爆発し、チャウシェスク政権は失脚しました。エレナは夫とともに逃走しましたが、結局はつかまってしまいます。のちに、6万人の大量虐殺や10億ドルの不正蓄財をしたとして起訴され、銃殺刑にされました。 とはいえ、いまだにこのご夫妻の支持者はいるようで、もとは別に埋葬されたものが一緒にしてもらえ、立派なお墓も作られました。

西大后

1835年に生まれ、18歳の時に清朝の咸豊帝の側室になった西太后は、生涯皇后にはなれませんでした。咸豊帝の死後、息子が5歳で同治帝となったため、慈禧皇太后という名が与えられました。

ちなみに、西太后は紫禁城の西宮に住んでいたことから、西太后と呼ばれるようになりました。当時、東宮には皇后が住んでいましたが、彼女は世継ぎを生むことができませんでした。しかし、しきたりにより皇后が世継ぎの嫡母となるため、同治帝が即位したのちに彼女も皇太后となり、生母である西太后と対で東太后と呼ばれました。 西太后は咸豊帝の死後、この東太后と、咸豊帝の弟だった恭親王奕訢と組んでクーデターを起こし、当時の権力者たちを処刑して権力を手に入れます。西太后と東太后は同治帝の後見として、恭親王奕訢は大臣としてこの三人で三頭政治を行う予定でしたが、東太后は政治に興味がなかったため、実質的には二頭政治となりました。 同治帝は若くして跡継ぎもなく崩御したため、西太后は次の皇帝にはごり押しで、皇帝候補者の中でも自分に近い血縁の妹の息子の光緒帝を立てました。相変わらず東太后と一緒に後見となっていましたが、光緒帝即位から約7年後、東太后は45歳で死去しました。 当然、暗殺を疑われましたが、理由はどうも脳卒中でした。その3年後、もう一人の権力者、恭親王奕訢に清仏戦争敗北の責任を負わせて失脚させ、西太后は絶対的な権力を握りました。 ただ、清の国力はどんどん弱くなってきており、この後にあった日清戦争に負けたのも、軍費を建物の改築費や西太后の60歳の大寿の祭典に流用したため、艦隊が資金不足でろくな操練ができなかったからだ、といわれています。 清の国内での権力は絶対でも、列強国の横やりで自由にならないことなども増えていきました。自分にはむかってきた光緒帝を廃嫡できなかったりして、西太后にはストレスがたまっていきました。
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