悪女の特徴・悪女診断・悪女になる方法・悪女の名言

自分磨き
あまり悪女エピソードがないため割愛しますが、その後、西太后は外国を廃絶しようと立ち上がった義和団の乱に協力して諸外国に宣戦布告したものの、義和団が諸外国の討伐隊に敗れたため、一旦西安まで逃走します。 ですが、清朝は諸外国に莫大な賠償金を払って、西太后は罪を問われずに複権できました。さすがに危機感を覚えた西太后は国内でさまざまな改革を試みますが、時はすでに遅かったのです。 1908年、光緒帝の崩御した翌日に、西太后は72歳の生涯を閉じます。死の前に、次の皇帝を溥儀と決めていましたが、わずか3年後に清は滅び、溥儀は清王朝最後の皇帝となりました。 西太后というと、映画やドラマなどで、非常に嫉妬深く残虐なイメージが定着しています。実際にも、光緒帝に申請を促した寵妃の珍妃を井戸に投げ入れて殺させました。息子の同治帝が自分ではなく東太后の推した姫を皇后にしたことに怒り、同治帝の死後、その皇后を殺害したりもしていて、十分に残虐ではありました。しかし、その原因は嫉妬ではなく、権力欲に起因していました。 俗説では、咸豊帝の寵愛を受けていたライバルの麗妃の手足を切断して壷の中に入れてしばらく飼っていた、というエピソードがあります。これはフィクションで、この麗妃や、他にも咸豊帝の寵愛を受けていた妃四人衆などは、それなりに位をあげてもらってそのまま後宮で穏やかに余生を送っていました。 他の側室たちも、殺されたり追い出されたものはおらず、そのまま厚遇を受けていました。どうやら、手足を切断して生殺し、というのは、西太后とともに中国三大悪女とされている武則天や呂后の残虐エピソードと混同されてしまいました。 麗妃などは虐待されるどころか、子供まで厚遇を受けています。彼女が産んだ娘が咸豊帝の子供の中で唯一の女性だったので、西太后と東太后がことのほかかわいがり、皇后の娘に与えられる称号も与えていたといいます。その他にも、東西の太后が一緒に権力を勝ち取った恭親王奕訢の娘も可愛がっており、二人で養子にしたとも伝えられています。 亡き皇帝の正室である東太后と共闘していて、関係も良好そうなエピソードがあることからも、あまり女性として、寵愛を争った相手にライバル心を持ったり妬んだり、という感情はなかったと推測されます。ただ、政治に口を出す輩には、容赦ありませんでした。

マリー・アントワネット

マリー・アントワネットは1755年、神聖ローマ帝国フランツ一世とオーストリア女大公マリア・テレジアの十一女として生まれました。オーストリア宮廷は非常に家庭的で仲が好く、家族でオペラやバレエを鑑賞したり、楽器を演奏したり、家族そろって狩りに出かけたり、幸せな少女時代を送りました。マリー・アントワネットはハープの演奏が得意で、死の直前、幽閉された時もハープを持ち込んでいたと言われています。

14歳の時に、フランス王太子ルイ・カペーのもとに嫁ぎました。おしゃれが好きで宮廷のファッションリーダーとなり、ルイ15世の寵姫であったデュ・バリー伯爵夫人と対立したり、パリのオペラ座の仮面舞踏会で遊んだり、賭けごとにのめり込んだりして、母のマリア・テレジアに手紙で戒められてもなかなかあらためませんでしたが、結婚して7年目に待望の第一子・マリー・テレーズを授かってからは、賭けごとはぴたりとやめたといわれています。 赤字夫人などと呼ばれ、とんでもない浪費家のように言われていますが、宮廷内で貧困な者のためのカンパをつのったり、子供たちにおもちゃを我慢させて寄付金に充てるなど、やさしく家庭的な人物でもありました。 王妃になってからは、無駄な慣習をやめさせて合理化を図ったりもしましたが、格式ばったことの好きな貴族からはかえって不評を買ってしまいました。また、大貴族たちを無視し、気に入った者たちだけを周りに置いたため、あぶれた貴族たちは宮廷を追い出されたデュ・バリー伯爵夫人の居城などに集まり、マリー・アントワネットの悪口を言っていました。この辺りから、でっち上げを含んだ彼女への中傷が広がり、パリの民衆の憎悪をかきたてることとなったといいます。 1785年には、マリー・アントワネットの名をかたった詐欺集団による首飾り事件があり、無実だったアントワネットも民衆の疑惑を消すことはできず、大スキャンダルになってしまいました。 スウェーデンのフェルゼン伯爵との浮き名があり、地味な夫であるルイ16世を見下していたところもありましたが、当時のフランス貴族としては珍しいことでもありませんでした。とはいえ、ルイ16世とは非常に仲が良く、子供たちを可愛がるよい母親で、夫妻は政治のほうの才能はなかったものの、良い家庭を作っていました。 フェルゼン伯爵との恋愛については真偽のほどはわかりませんが、フェルゼン伯は最後までこの外国の国王一家に尽くし、ルイ16世やマリー・アントワネットの死後も、その子供たちのために尽力してくれたことは事実でした。 時代としては、貧しい民衆の怒りが贅沢な生活をする王家や貴族に対して爆発し、フランス革命が起こりました。今までそばにいた貴族たちはすべて逃げてしまい、最後まで誠実だったのは王妹エリザベートとランバル公夫人だけだったといいます。 国王一家はフェルゼン伯の力を借りて、オーストラリアにいるアントワネットの兄・ランポルト2世のところに逃げようと、庶民に化けてフランス脱走をはかりますが、二手に分かれて質素な馬車で疑惑をそらそうというフェルゼンの助言に従わず、家族全員で足の遅い豪華な馬車に乗って逃げたために計画が狂い、つかまって幽閉され、裁判にかけられます。 フランスから逃げようとしたことで、親国王派だった国民にも裏切り者とみなされ、国王一家の立場はますます悪くなってしまいました。ただ、幽閉先では待遇も良く、国王一家は外には出られないことをのぞけば大して不自由はなく、家族で楽しく暮らしていたといいます。 ルイ16世の処刑が決まってからはみなバラバラにされ、子供たちは親の死も知らされなかったといいます。1793年、マリー・アントワネットも夫と同じようにギロチンで処刑されました。当日は朝食の希望を聞かれても、「もう何も必要ありません」と断り、キチンと身支度をして、最後まで毅然とした立派な態度でした。 マリー・アントワネットの4人の子供のうち、この時に残っていたのは王女マリー・テレーズと王太子ルイ・シャルル(他の二人は夭折)でしたが、ルイ・シャルルは両親の死後凄絶な虐待を受け、救い出された時には手のつけようもなく、看護はされたものの長くは持たず、わずか10歳で亡くなりました。マリー・テレーズは革命を生き延び、73歳まで生きています。 さほどの美人ではないものの、肌が驚くほど美しく、所作が優雅で非常に魅力的であり、優しい性格だったというマリー・アントワネットには、数々の中傷があったものの、大半は嘘だと判明しており、今は家族とともに葬られています。

クサンチッぺ

古代ギリシアの哲学者ソクラテスの妻であるクサンチッぺは、悪女としてより、「世界三大悪妻」としてのほうが有名です。とにかく、悪妻の代名詞のように言われていますが、何しろ古代の人なので、実像はほとんど不明です。弟子の中でも、クセノフォンには「これほど耐えがたい女はいない」と書き残され、プラトンには「情愛の深い女性」と書かれています。

「セミは幸せだ。なぜなら、物を言わない妻がいるから」 「ぜひ結婚しなさい。よい妻を持てば幸せになれるし、悪い妻を持てば哲学者になれる」 「結婚は、してもしなくても後悔するものだから、したほうがよい」 「クサンチッぺとうまくいくなら、他の誰とでもうまくやれる」

こんな、ソクラテスの言葉が有名です。ソクラテスのいた時代、哲学者はたいてい裕福な暮らしをしていましたが、ソクラテスは清貧を貫いた上に、弟子はたくさんいたのですから、クサンチッぺはかなり苦労をしたのではないかと推測されます。 非常に怒りっぽく癇癪持ちだといわれており、ある時などはソクラテスに散々どなった挙句、水を浴びせたというエピソードもあります。ソクラテスはそれでも平気で、「雷の後には雨が降るものだからね」と言ったとされています。 その一方で、母親に耐えられないという長男に対し、ソクラテスは、「お前が病気の時に、お母さんは早く治るように自分のできることをすべてしてくれ、何の不自由もないように世話をしてくれる。こんなお母さんに耐えられないなら、お前は善いことに耐えられないんだ」といさめたとも言われています。クサンチッぺは、家庭を守る、良き母親でもあったのでしょう。 この時代、男女は厳しく分けられ、家の中でも男の部屋と女の部屋に分けられていたと言います。女性は地位が低く、外出するにも夫の許可が必要でした。そんな中で、文句を言いながらも甲斐性のない夫に尽くしていたクサンチッぺは、妻としてもそうは悪くなかったのです。 ソクラテスは、スパルタとの戦いで敗れたアテネを混乱に陥れた罪を問われ、死刑になりました。実際はソクラテスが何かしたわけではないのですが、混乱の原因を作ったのがみんなソクラテスの弟子だったので、教育責任を取らされたのです。 当時のしきたりに従い、ソクラテスは民衆の多数決で有罪とされ、やはり多数決で死刑に決まってしまいました。逃亡のチャンスはありましたが、「悪法も法なり」といって、逃げませんでした。 死刑の前夜、ソクラテスは獄中でクサンチッぺと三人の息子たちと過ごしました。朝になると、嘆き悲しむクサンチッぺと息子たちを家に帰し、一人で刑に臨み、潔く死刑になったとのことです。

悪女?

悪女の特徴・悪女診断・悪女になる方法・悪女の名言

一人一人の人生がかなり濃いため、かなり長々と語ってしまいましたが、有名な悪女たちはいかがでしたか。 この中では、江青が一番自分の本能に忠実で、人を陥れるのが得意で、いらない男はポンポン捨て、一番の権力者には食いついて離れず、悪女らしい悪女と言えるのではないでしょうか。

西太后は、政敵には全く容赦なく残酷な面もありますが、夫の側室にも正室にも案外やさしく、中国三大悪女のうちでは一番優しいのでは、とも思えます。他の二人、呂后や武則天などは、残虐すぎて、悪女というより悪魔というか、気に入らない女の殺し方なども猟奇殺人の域に達しているのではないかと感じるほどです。中国の悪女の皆様は、ちょっと他の国の皆様とはレベルが違うのではないでしょうか。 それに比べ、チャウシェスクは江青のちょっと人の好くなったバージョンともいえますし、メアリー1世は、その不安定な立場や父の仕打ちなどから、人間不信になったりプロテスタントが嫌いになるのも理解はできるでしょう。 マリー・アントワネットに至っては、時代が悪かったとしか言いようがありません。ブルボン王朝の財産を食いつくしたかのような言われようをしていましたが、彼女の浪費額は若い頃に対立したデュ・バリー伯夫人の10分の1程度ですし、ちょっと前なら普通の王妃として終わったでしょう。人が好さそうで権謀術策には全く向いていないところも、悪女という概念からは外れます。 結局、ここにあげたどの皆さんも幸せな生涯は送っておらず、範囲を広げて悪女と呼ばれるかたを調べても、似たり寄ったりです。峰不二子ちゃんのような、華麗で気楽そうで、うらやましい悪女は、残念ながらどこにも見当たりませんでした。

悪女診断

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さて、歴史上の悪女を見てきましたが、現代で悪女だといわれるのはどんな女性でしょう。そして、あなたの悪女度はどのくらいでしょうか。

人によって悪女の概念も基準も多少違ってくるので、絶対に正確とは言い切れません。あなたの中の悪女度をちょっと診断してみましょう。

友達の彼氏を取れますか?

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のっけから強烈ですが、ここは重要です。悪女は、自分の本能に忠実です。好きになったら仕方がない、恋に歯止めは利かないから仕方がないと割り切れる人は、かなり悪女度が高いです。さらに、平気で何回も取ってしまえるなら、悪女度は100パーセントに近いでしょう。

反対に、そんなひどいことができるわけがないという常識的で優しいあなたは、悪女度ゼロです。どうせお友達になるなら、断然こっちの方のほうが良いです。 友達の彼氏を取れるだろう、あるいは取ったことがあるという方でも、罪悪感が消えなかったり、「私はなんてひどい女なの」と感傷に浸ってしまうタイプの方は、悪女度が高いとはいえません。どちらかといえば低めです。反省という二文字は、悪女には縁のないものでしょう。

恋より利用価値で男を選ぶ?

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前述の、友達の彼氏を平気で取る悪女とは正反対ですが、恋におぼれず利用価値で男を判断するのも、悪女の中の一つのパターンです。ステイタスのある彼氏、お金持ちの彼氏、仕事に協力をしてくれる彼氏など、目的に応じて彼氏を選ぶのも、悪女らしい行動の一つといえましょう。

さらに、利用価値がなくなったらあっさり他の人に乗り換えたり、二股・三股もかけられれば、さらに悪女度はアップします。 好きが先にくるのではなく、自分に必要な価値があるから好きなのです。その価値がなくなったら、好きでも何でもなくなるのは自然の摂理でしょう。そんな考え方、汚いと思った方は、悪女度ゼロです。
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